ある晴れた日に

ある晴れた日に 番外編 -オタクの神様-

神様っていると思う? 幸せと不幸せってバランスがあると思う? さて、震災はあっても日々は続いていく。津波で実家が完全に流されてしまった宮城出身の友人と私は、震災のせいで初日が遅れたとある演目を一緒に見に行く予定だった。あれは2011年4月中旬。震…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (7)

あのときなぎたおされた松の木はまだそのままだった。彼女の家の裏の津波によってえぐられた堤防の下は、砂利で埋められていた。家のあった場所は一応整地されてはいたけれど、そのところどころに陶器の破片やフォークがおっこっていた。それはここに生活の…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (6)

それから私たちは仙台市街に向かった。そこにも共通の友人の家があったからだ。宮城のちょっとはずれから仙台に向かう途中の幹線道路の建物には今度は津波ではなく、地震の傷跡が生々しく残っていた。特に車のショウルームのガラス張りの壁の破損っぷりはす…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (5)

そして彼女の家にあった場所についた。もはやそこは砂浜といってもいいような更地になっていた。今までガレキを見てきたけれど、そこには家の土台しかなく、ほとんどなんにもなかった。すべて流されてしまったのだ。かろうじて家の隣にあったというビニール…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (4)

彼女は説明する。このへんは田園地帯だから被害が少なかったのだと。たしかに宮城は米所としても知られる。広大な田んぼにいくつか家が点在しているだけで、漁師町のように(たとえば石巻とか)すさまじいガレキはない。もちろん集落らしき場所もあったのだ…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (3)

当時はまだ被災地への立ち入りについていろいろなことが言われていた時期だった。物見遊山気分で行くのはどうなのか、とかそんなことがいっぱい言われていた。物資の不足はやや解消されていた時期だろうか。それでもなんとなく現地に行くのははばかられた。…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (2)

私にはひとりの友人がいる。宮城県出身で自宅はその地域で海岸線から一番近い場所(というのは震災の時に知った)にある農家だった。いわゆる趣味のお友だちである一方で、私は震災までに2~3回彼女の実家からお米を購入させていただいていた。私の貧しい…

ある晴れた日に -2011年4月宮城- (1)

ずっと表だって書いてこなかったことを書いてみようと思ったのは、ほぼ日刊イトイ新聞で「書きかけてやめた福島のことを、もう一度」という記事を読んだからだ。ここで永田さんは「“書かない方がいい理由”が山ほどあるから書いたほうがいい」とおっしゃって…