ある晴れた日に -2011年4月宮城- (2)

 私にはひとりの友人がいる。宮城県出身で自宅はその地域で海岸線から一番近い場所(というのは震災の時に知った)にある農家だった。いわゆる趣味のお友だちである一方で、私は震災までに2~3回彼女の実家からお米を購入させていただいていた。私の貧しい舌でもわかるくらいの、農家が自分の家で食べるために作った超うまい新米だ。お米を送っていただくときに、彼女のお母様は段ボールにお野菜をたくさんつめてくださって、一応お米代としてお金は支払っているけれど、これはお母様損してませんか……? と心配になるくらいの米+野菜便だった。その彼女の実家は津波のニュースが入った時点で確実に被害を受けているであろうことが判明していた。しかし当然連絡はとれない。それを知ったあのときの不安をなんと言ったらいいのだろう。TVもインターネットも親しい人の情報は教えてくれない。それはあの日、日本中でさまざまな人が感じていたひどい不安だったのだろうけれど、その一端に私もいた。不安でたまらない真っ暗で寒い夜。

 幸いなことに、彼女の家族は無事だった。ほかにもいろんなことがあったけれど、ともあれ彼女の家族が無事だったのは大きな幸いだった。

 まだ余震の続く3月の末、彼女を含めて全員30代の女ともだち4人で我が家に集まった。「ぱーっと遊ぼうよ」みたいな集まりだったように記憶している。昼間からちらし寿司を作って、日本酒を飲んで、DVDを見て、笑って過ごした。そしてその途中で、自然と話は震災のことになった。すでに彼女は震災後1週間くらいに親戚と現地入りしていた。彼女の家族は無事だったが、彼女の家は土台だけになっていて、その写真を見せてくれた。なにもない状態。まっさらになったと彼女は笑う。そんな状態になったら笑うしかないのかもしれない。また4月に行こうと思う、という話のときに彼女は言った。「小説家ならあの光景を見てみるといいかも」と。(続く)