ある晴れた日に -2011年4月宮城- (3)

 当時はまだ被災地への立ち入りについていろいろなことが言われていた時期だった。物見遊山気分で行くのはどうなのか、とかそんなことがいっぱい言われていた。物資の不足はやや解消されていた時期だろうか。それでもなんとなく現地に行くのははばかられた。もちろん物見遊山に行くつもりだったわけではない。それでもあの時期は本当にいろんなことが言われていたのだ。素直にそれを口にしたら「遺留品探しを手伝ってもらうんだし、物見遊山じゃない。手はあればあるほどうれしい」と言ってくれた。それでようやく決心がついた。

  でもそれをリアルタイムでTweetする勇気もなかったし、今までちゃんとした文章にもしてこなかったのだけれど。あの頃の空気感はそれくらいのものがあったのだ。

  4月24日に日付が変わる頃の深夜、震災から約50日目、私たちは共通の友人が運転する4WDで女4人、宮城へと向かった。

  東京を発つ頃は天気が悪かったのだけれど、東北道で宮城に近づくにつれて、天気は回復してきた。夜明けとともにブルーシートがかかっている屋根があちこちに見えるようになってくる。同時に道路もところどころ修復が追いついていないところが見受けられた。途中のPAでは何台かの観光バスが止まっていて、そのバスの中は各県警の人たちが乗り合わせて被災地に行くところだったりした。もちろん自衛隊の車両もたくさんあったし、米軍の車両も見た。

  そして宮城入り。それほど今までの道中で見た光景とかわりはないように感じられた。彼女の家に近づくにつれて、風景はのどかな田園地帯へと変わっていく。4月の末でなにも植えられていない田園地帯、と考えるとそれはそれで異様なのだけれど、そのときはそんなことを考えていなかった。徐々にその田園地帯のあちこちにゴミが落ちていることに気づき始める。そして突然1階部分が壊れている家が増えてきたかと思うと、そこにがれきの山があった。(続く)