ある晴れた日に -2011年4月宮城- (4)

  彼女は説明する。このへんは田園地帯だから被害が少なかったのだと。たしかに宮城は米所としても知られる。広大な田んぼにいくつか家が点在しているだけで、漁師町のように(たとえば石巻とか)すさまじいガレキはない。もちろん集落らしき場所もあったのだろうけれど、ほとんど根こそぎ持って行かれた状態ではそれは想像できない。でもそれだけに点在するガレキは空き地に放置されているなにかのようであり、とにかく異様だった。泥にまみれてひっくり返った車もそのまま放置されていたし、ビニールハウスの残骸らしきガレキもあったし、当然ふつうの家のガレキもあったし、墓石も転がっていた。そんな中、泥だらけのアスファルトの道路に自衛隊の車が散水していた。

 私はなぜかその光景は曇天模様なのではないかと思っていた。その風景は曇天模様だと、悪天候だと私は思っていたのだ。でもそこには当然のように、青空が広がり、すがすがしいほどの天気だった。

 車は海岸線に近づいていく。電信柱が倒れ、家はない。いくつか残っている建物もあるが、半壊か全壊か、とにかく無傷の建物はない。

 そしてまだ水のひいていないところ(あるいは雨で陥没した土地に水がたまっていたのかもしれない)が多くなり、貞山堀と呼ばれる運河には大量のガレキがたまっていた。ガレキと言っていいのかさえもわからない。そこに住んでいた人たちの生活すべてがあった。津波が引いていくときにここにものがたまったのだという。もちろん逆のものもある。この堀がなければもっとたくさんのものが海に流れたはずだ。直後はここにはガレキだけではなく遺体があったのだとも。当たり前だ。あれだけの人が死んだのだ。

 震災から1ヶ月半、もう少し片付けが進んでいるのではないかと私は思っていた。でもそこは車が通れるようにはなっているものの、ほとんど片付けられていなかった。たぶん水が引いて、遺体がなくなっただけであの日のままだった。(続く)