ある晴れた日に -2011年4月宮城- (5)

 そして彼女の家にあった場所についた。もはやそこは砂浜といってもいいような更地になっていた。今までガレキを見てきたけれど、そこには家の土台しかなく、ほとんどなんにもなかった。すべて流されてしまったのだ。かろうじて家の隣にあったというビニールハウスの骨組だけが残っていた。

 家のまわりにあったという松の木はのきなみなぎ倒され、残っていた何本かは津波をかぶった高さ分だけ葉が落ちている。それが津波の高さを物語っていた。もっとも彼女によるとこのへんは低くて10メートルくらい、だったらしいけれども。家の裏はすぐ堤防で、その堤防の下は深くえぐられ、まだ海水がたまっていた。

 グーグルストリートビューで在りし日の姿を確認する。たしかにそこには家があり、緑がしげっていた。けれど目の前には砂浜となぎたおされた松の木があるだけだ。

「でも全部なくなっちゃった方が未練がなくてかえっていいのかも」

 笑いながら彼女は言った。

 彼女の家から少し離れた場所に彼女の家のものが大量に漂着している場所があるという。私たちはそこに向かった。そこからいくつか彼女の思い出の品を捜す。そこには彼女の祖父あてに届いた年賀状や、彼女の弟(もちろん成人済)の名前の入ったランドセルやいろんなものがあった。「全部なくなっちゃった方が未練がなくていい」と言った彼女のほんのちょっとの未練をそこから拾い上げる。

 それから今彼女の家族が住んでいるアパートへと向かう。弟さんの勤務先の社員寮的な場所が空いており、早めに移動することができたのだと言う。訪ねる前、彼女が宮城に帰るときに私は少しのお見舞い金を包ませていただいていた。そのご挨拶にお母様から頭を下げられて、私は頭を下げるだけで精一杯だった。

 あの津波のときに、お父様はいくつかの命を救い、そして救えなかった命もあったという。でも救えたことが父を支えているのかもしれないとも彼女は言っていた。(続)