ある晴れた日に -2011年4月宮城- (6)

 それから私たちは仙台市街に向かった。そこにも共通の友人の家があったからだ。宮城のちょっとはずれから仙台に向かう途中の幹線道路の建物には今度は津波ではなく、地震の傷跡が生々しく残っていた。特に車のショウルームのガラス張りの壁の破損っぷりはすさまじかった。そして途中でいくつもの遺体安置所を通り過ぎる。そういうものを見ながら仙台の友人宅に行き、無事を喜びあい、ピザの出前をとって食べた。

 やはりオタクである友人は本棚の崩壊が1番きついと笑っていた。1度片付けたものの、余震でまた崩れ、落ち着くまでは片付けるのをやめる、と。近所のホームセンターもひどいことになっていて、まだ営業を再開していないとも言っていた。

 そんな話をしているとき、途中で緊急地震速報が鳴った。ほんのちょっとだけどきっとしたけれど、それ以外仙台はいたって平穏に見えた。ついさっき海岸沿いで見た光景がまるで夢だったかのような平穏ぶりだった。それは津波被害を受けた地域とそれ以外の地域の格差はすさまじいことを物語っていた。

 そして1年と4ヶ月後、2012年の夏、私たちはまた仙台に行った。いわゆる目当ての舞台を見るための地方遠征というやつだ。公演前にまた彼女の家の跡を訪れることになった。

 田圃の風景は2011年の4月とほとんどかわっていなかった。ガレキがなくなり、ところどころに雑草が生えているものの、田圃に稲が植えられている気配はほとんどない。海に近づけば近づくほど、田圃はただの荒野のようだった。宮城有数の米所であったこのあたりは、除塩作業中で、そのテスト地域にもなっているのだと彼女が教えてくれた。壊れた家屋はまだそのままのところが多かった。1年以上経っても、爪痕はくっきりと残っていた。

 そして彼女の家のあった場所に近づく。あのとき自衛隊の車が通っていた道路は、今はダンプカーが通っていた。彼女の家のまわりは工事中だった。(続)