ある晴れた日に -2011年4月宮城- (7)

 あのときなぎたおされた松の木はまだそのままだった。彼女の家の裏の津波によってえぐられた堤防の下は、砂利で埋められていた。家のあった場所は一応整地されてはいたけれど、そのところどころに陶器の破片やフォークがおっこっていた。それはここに生活の場があったという証だった。けれど、ここにもう1度彼女の家が建つことはない。

 私はあれから1年と4ヶ月が経って、もう少し風景が変わっているのではないかとそんな甘い期待を抱いていた。いや、2011年4月に訪れたときだって、あれから2ヶ月弱経っているんだから、世界は元に戻り始めているのではないかとそう思っていたのだ。けれど破壊された世界は戻らず、そのままだった。

 それからみんなで舞台を見に行った。会場となったそこは、震災直後は避難所として使われていたのだという。東北出身のキャストのひとりが感極まって泣いていた。彼は今だ復興していない海岸沿いの風景を見たのだろうか。

 そして私たちは、昨年も訪れた仙台の友人宅に一泊した。深夜小さな地震があって、びっくりしたのは前のときと同じだった。

 当たり前だけどあの時、2011年3月11日から世界は続き、復興は進んでいるけれど、進んでいない。

 私はこの5月にまた仙台を訪れることになっている。きっとまた変わらない世界を確認するのだろう。そういえば彼女の実家は元の場所ではないけれど、ほど近い場所に新築で家を建てたそうだ。そして農家を続けるのだと言っていた。それは変わらない世界の中で変わっていくほんのちょっとのうれしい事柄だ。

 今日はあれから2回目の3月11日だ。TVで被災地訪問を見て、私はほんの少し泣いた。どうして泣くのかわからないけれど、泣いた。だから続きを書くのがなんとなくしんどかったこれを最後まで書くことにした。

 どうかそこに笑顔がありますように。祈るだけでは届かない思いを伝える努力を忘れないように。

 あと1回続きます。